推理小説と人類学の部屋

小説や学術書などの感想を書きます。小説は主に推理小説を。学術書は主に文化人類学を。

「外田警部、カシオペアに乗る」

 早速外田警部シリーズ1作目の『外田警部、カシオペアに乗る』を読んでみました。どうやら短編らしいのでまずは表題作「外田警部、カシオペアに乗る」から。

 古野まほろ氏は西村京太郎氏のような推理小説家はあまり好みじゃないのかと思っていたけど『TGV』でもポンメルシー警視正が十津川を賞賛してるし、そういうわけじゃないのかな。

 このシリーズはwikipediaによるとコロンボのオマージュ(本人の発言を参照しているのか?)らしいけど、十津川警部シリーズのオマージュでもあるように見える。

 天帝シリーズでは本格推理小説キヨスクミステリを一緒にするな、みたいなキャラが出てきた気がするけど。

 今回の犯人は推理小説家。『TGV』の犯人と比べると、ちょっと凄味に欠ける印象。動機とか策謀とか。まあ短編だから仕方ないけど。

 いずれコロンボも見直してこのシリーズと比較してみたいな。

『外田警部、TGVに乗る』感想

古野まほろ 2014 『外田警部、TGVに乗る』 光文社

 最近何かと話題の古野まほろの作品である。私は彼の作品は騒動以前から読んでいて、好きな作家の1人だったので今回の騒動そのものは残念に思う。しかし彼にとっては毒舌はパフォーマンスのようなものであり、最初の北大生とのやり取りで発された馬鹿じゃないの、という発言に関してはファンであればそう怒るものではないのではないだろうか。

 実際そのあと口論になったのは北大推理小説研究会ではない部外者のようである。もっとも古野の北大をこき下ろすようなツイートは褒められたものではなかったが。しかしいずれにせよ作品に罪はない。

 本題となる作品の紹介。

 本書は外田警部シリーズの2作目である。古野作品については天帝シリーズと探偵小説シリーズ、イエユカシリーズについては読んでいたが、このシリーズははじめてのものである。

 どうやらこれはシリーズ2作目らしく、間違えて1作目を飛ばしてしまった。まあしかし1作目のエピソードは一応完結しているらしいようなので、そのまま読み進める。

 主人公は探偵小説シリーズで小諸るいかの右腕を務める外田警部。

 コロンボをオマージュしているという話は聞いていたが、それが古野の狙いであれば成功しているように見える。

 犯人は早々に読者に明かされ、外田たち捜査陣営も割と早く当たりを付ける。そこからはひょうきんな外田警部が犯人の元に乗り込んで対決をするという具合だ。典型的な倒叙ものである。

 推理小説である以上倒叙ものといえど、あまり犯人に言及すべきではないと思うが、非常に魅力的な犯人のように思えた。

 倒叙ものは探偵の魅力度以上に犯人の魅力度が重要だろう。

 本作の犯人は自らの立身出世のために殺人を犯すが、決して私利私欲ではなく、過去の体験から来る使命感のためのものである。

 犯人の憤りには共感できる点もとても多かった。

 犯人に殺人の事実を認めさせる攻防、そこからさらにもう一波乱の攻防があったが、いずれも読みごたえのあるものだった。

 また舞台はフランスであるが、フランスについてのルポルタージュとしても興味深く読める作品だ。もちろん、多少の脚色はあるだろうが。前回の記事で紹介した『完全犯罪に猫は何匹必要か』に準えるならそうしたフランス的な豆知識の紹介のなかに事件の手がかりを忍ばせるといったところか。

 もちろん古野作品、とりわけ外田警部が主役の本作では終始ギャグのような調子で捜査が行われていく。

 文庫化している古野の他の作品に比べると決して入手しやすい作品ではないが、その価値のある本ではないだろうか。

 ところで外田は本作において犯人の身近な人間に取り入るために職人芸的な料理や掃除の腕を発揮するが、どこで身に付けた設定なのだろうか。探偵小説シリーズはシリーズ3作目までしか読んでないし、読んだのも随分昔の話なので、そうした設定も登場しているのかもしれない。

 あと外田とポンメルシーが解決した「テンプラソバを四敗食べてから五〇〇ユーロ札を握り締めたまま熟田津城へのロープウェイ密室で首なし死体となって発見されたテナルディエ氏殺害事件」の詳細が気になるところだ。

『完全犯罪に猫は何匹必要か?』感想

東川篤哉 2008(ノベルス版は2003) 『完全犯罪に猫は何匹必要か?』文庫版 光文社

 トリック、その手掛かりの提示のされ方、動機論などいずれの謎もとても面白く読み応えがあった。

 動機も途端に過去の因縁が明らかにされるのではなく、物語の随所にヒントがあり、読者がその推測を楽しめる形だったのもよい点だった。

 野暮な意見かもしれないが、タイトルが冠する完全犯罪という言葉の割には、犯人の計画はその計画の段階で多くの隙があるのではないだろうか。しかし事件の背景を考えればこの手段を選んだことにも犯人とっては意趣返しのような意味合いがあったのかもしれない。

 巻末に掲載されている霧舎巧の解説もとても興味深かった。霧舎は自身を本格ミステリとラブコメの融合、東川を本格ミステリとギャグの融合としている。

 本格ミステリにおけるいわゆる問題編の退屈さを霧舎は指摘する。それについて一部の小説家は「人間を書く」ことによって問題編を魅力的なものにしてきたという。

 一方で東川はギャグのなかにヒントを提示するという手段で問題編を読み応えのあるものにしようと試みているという。

 なるほどと思った。私はこれに似た感覚を西澤保彦の『ナイフが空から降ってくる』を読んだときに感じた。

 また霧舎の解説においては、探偵役である鵜養とその一行が被害者の死を悲しんだり、義憤に駆られ事件解決に向けて使命感を燃やすようなことがないことが指摘されている。

 しかし絶えず探偵役とその助手がボケとツッコミを繰り返すこのシリーズにおいてはそうした描写はむしろその雰囲気にはそぐわないと霧舎は指摘するのだ。本書においても被害者の家族や知人はさして嘆き悲しむ様子は目立たない。

 かつて本格ミステリにおいて人間が書けていない、という批判がなされたというが、人間の書き方は単一ではないのかもしれない。ちなみに同様の批判は『ナイフが空から降ってくる』読書会を学生同士で行ったときにも聞かれたものだ。

 少なくとも東川のこのシリーズにおいては、現実にこんな人間がいるだろうかと思わされることも多いが、かといって彼らが物語を面白くするための駒であるかのように、不自然な行動をしているという印象はない。

 ところで第二の事件のトリックは本当に成立するのであろうか。こういったことに詳しい方がいればぜひご教授いただきたい。